こんにちは!餅月です。
今日はTwitterにて、
ラテン語さんが訳して下さったセバスチャンの詩が意味深だったのでこちらを考察させて頂きたく思います。(掲載許可済みです)
プロメルティウスの4巻7歌1-5行
今回考察する箇所は寄宿学校編のこのシーンです。
ラテン語の授業のシーンで、セバスチャンは何か詩を読んでいます。
こちらの詩は、
プロメルティウスの4巻7歌1-5行の部分とのことです。
この詩を日本語訳すると大変意味深だったため、
訳を乗せさせていただきます。
プロメルティウスの4巻7歌1-5行霊は確かに存在する。
死が全てを終わらせることはない。そして、青白い幻影は火葬の薪の山に打ち勝ち、そこから逃れる。
なぜなら,あのキュンティアが私のベッドに寄りかかっているのが見えたからだ。少し前に道の脇の、人がざわめく所のそばに葬られたばかりだというのに。
彼女の霊を見たのは、愛しい人の葬儀の後、なかなか寝付けないときのことであった。
訳:ラテン語さんより引用
何て意味深な詩でしょう。
この詩をセバスチャンに読ませたことは明らかに枢先生の意図だと考えられます。
これが悪魔であるセバスチャンの口から発されていると思うだけで考え深いものがありますね。
葬儀屋(アンダーテイカー)の目線
そしてこの詩は、
悪魔から見た「霊」と「死」についてを語っていると考えても面白いかもしれませんが、私はどうも葬儀屋(アンダーテイカー)の目線に見えてしまってなりません。
寄宿学校編の校長の正体が葬儀屋であったため、その暗喩だったととらえるのは少しこじつけが過ぎるかもしれませんがもしかするとそのような意図ももしかしたらあったのかもしれませんね。
火葬というワードでは遺体を燃やされている死神を連想しますし、何より「彼女の霊を見たのは、愛しい人の葬儀の後、なかなか寝付けないときのことであった。」の彼女、愛しい人とは葬儀屋にとってクローディア・ファントムハイヴなのではないかなと思ってしまってなりません。
愛しい人の葬儀後中々寝付けない葬儀屋…想像が出来すぎてヤバいです。
葬儀屋さんはヴィンセントの写真を見ただけですぐに泣いてしまうほどな繊細な一面を持ち合わせいます。
葬儀屋さんが変人の様に笑いを求める姿勢には、笑いを求めていないとすぐにでも泣き出してしまうような、そんな悲しい過去に今もなおずっと苛まれ続けているキャラクターだからなのではないかと思ってしまってなりません。
もし本当にヴィンセントとその双子が葬儀屋にとってのクローディアとの忘れ形見だったとしたら、死神派遣協会に狙われてもなお彼女の意思を身を挺して守ろうとする葬儀屋さんは本当に健気なキャラクターなのかもしれません。
餅月